エピローグ:規範的モデルの忌避?
はじめに
*
本エッセーで主題としようとするのは、多重自己の意思決定者モデルです。
多重自己とは、合理的にふるまおうとしてもそうすることができない意思決定者の
心理学的モデルのことをさしています。限界のある合理性(bounded rationality)のモデル化の
一種と考えてられますが、たんじゅんに、意思決定者には情報処理能力に限りがある、つまり
認知的限界を仮定することとは異なる側面を持っています。例えば、最初から合理的に
ふるまうつもりがない場合は、多重自己の場合からは除かれます。
また、もちろん認知的限界は、組織、つまり人々が互いに協力することを通じて、
あるいは科学技術や情報技術(IT)といった現代的な手段によって、
ある程度、といおうか、格段に、克服されると考えられますが、
一方、多重自己はITを利用する個人や組織の心理においても発生します。
むしろ、その場合こそ、派生的な多重自己を含んでおり、本エッセーではそれに
ついて、一種の組織病理として述べてみたり、あるいは筆者の研究上の関心の来歴として、
語ってみたいと思います。
* 合理的な意思決定の研究は
科学的管理や統計的品質管理に端を発し、
コンピュータの発展と結びつき発展を遂げた。
1940年代以降は、経営科学/オペレーションズリサーチ
(MS/OR)と呼ばれるようになり、
さまざまなビジネス分野に応用されている。
* コンピュータが普及した今日、これら計量的手法は、パソコン用の
比較的安価なソフトウェアも増えており、たいへん
手軽に実行できるようになっている。プログラミングの
能力があれば、既存手法を実装したり新しい手法を実験する
ことも自在にできるだろう。
* 素朴な類推として、ITの発展がこれらの手法を分析専門家のみならず、
ビジネスプロセスの中に浸透すると予想された。
しかし実際にはどうだろう。OR(オペレーションズリサーチ)が
AI(人工知能)とも交流しつつ、どんどん新手法を生み出しているが、
人口に膾炙していない。
こちらはいくら勉強してもおいつかないというのに。。。
* 今日この分野の研究者は、いってみれば
コウルズ委員会の末裔たちである。
そこを知能の交流の起点として、産業連関分析、線形計画法、ゲームの理論、
計量経済学、多変量解析といった今日のOR・経済学的分析の基礎理論と
その現実問題への応用に結びつく基礎理論が次々に開拓されていった。
当時を回顧したHildreth
の本(Hildreth, C. (1986). The Cowles Commission in Chicago, 1939-1955,
Springer.)の序文は、コンサルタントと呼ばれ、大学組織に
寄生していた上記委員会の経緯を説明しており興味深い。
* これらの問題解決手法
はいわゆる線形革命とコンピュータの計算力との強力なカップリングによ
って支えられていた。多くの非線形手法も、日本人(たとえば宇沢弘文)
の業績を含めて当時の研究に基礎がある。また当時から、経済学の分野と
OR・経営科学分野の距離は大変近かったようだ。
*
今日にいたって、データマイニング、金融派生商品開発、サプライチェーン
管理とスケジューリング、プロジェクト管理、品質管理と
リスクマネジメントシステム、知識管理、業績評価システムとガバナンス構築
など、その子孫たる知的情報処理と意思決定手法の研究はにぎやかだ。
ただしORの教科書や情報処理の資格試験対策本を読んで
もでていない。
情報システムとビジネスの意思決定
* さて、意思決定の技術が普及するためには、意思決定のためのデータを
収集するコストを下げなければならない。情報システムのデザインが
わるければ、意思決定に必要なデータを記録できず、それを別途時間
をかけてで集めること、それゆえ合理的な決定をすることをむずかし
くする。その意味でITと意思決定手法はニワトリとタマゴの関係にあるといえる。
*
意思決定のスピードを確保することは、戦略的経営にとって重要である
とよく言われる。社長がすべてを視て回ることが不可能な、大企業では
通信ネットワークやコンピュータによるデータ処理システムがそれに
貢献する。
例えば生産・在庫・販売および財務のリアルタイムの経営データ
が必要であれば、ERP・SCPなどの統合的システムの導入によって
実現可能であるし、あるいはデータベースとイントラネットだけで
も十分かもしれない。こういった話はすでに現実のビジネスに
おいてありふれた話になったと思われる。
* 気になるのは、Stylized Information Systemsの成功に押されて、
規範的な意思決定の技術が、伝統的な情報システムの開発管理方法論ともども、
時間のかかる分析や不確かな予測にすぎないとして、忌避されうるという
点である。
*
日本的な経営のスタイルというのも、潮流に逆らえず変質を遂げた。
データ収集にコストと時間がかかっていた時代には、意思決定のスピードを
確保するために、戦略的意思決定者における権限集中すなわち独裁が
相対的に有利であった。また現場の相対的に重要性が低い意思決定は分権化し、
部門の責任者の独裁とするか、あるいは小集団に権限を付与して問題解決
チームを作るのが合理的なやり方だったろう。しかし分権化はそれぞれの部門の
利権のからみという非協力ゲームを生じ、調整のためのさまざまな
社会的コストを生み、そして変化する環境への足かせになりうる。
*
たしかに一業務担当者が使うシステムが、その業務の流れを阻害しないように
デザインすることは必要である。非専門家である
一般ユーザーからみれば、理解や作業のための知的負荷が大きすぎる
理論的手法は、信頼されないおそれがある。かといって、それが
ビジネスに役立たないということを必ずしも意味しない。
時間圧はすでに知られている最も手早く質の高い解決法(=経営モデル)の適用
を迫り、意思決定者にじっくり考える間を与えない。
*
オブジェクト指向計算の延長として、情報システムのモデリング
のために参照されるべき十分な資源(レポジトリ、
リファレンス)が
すでに再利用できる環境にあれば、こうしたトレードオフは改良される
と考えられる。ビジネスを全体的なシステムとして捉え、
モデリングするアプローチも注目されている。
まずそのコンポーネントを選択し、それらの
属性、関係、目的などを系統的に記述し、仮想的なシステムを
組みなおす。必要に応じてシミュレーションを行い、費用便益やリスクを評価
する。いわゆるビジネスプロセスモデリングは、
かつて大規模プロジェクト開発の栄光を背負った分野である
システム科学・システム工学の伝統の継承者という感じもする。
役に立つ技術と人間性
* 20世紀の科学技術、とくにデジタルコンピュータが発明されて以降の情報技術の発展は、
社会やビジネスだけでなく、学問にも大きな変化を与えた。経済学者は、人間と社会
の合理的な選択のモデルとその限界を、計算、とはいえその方法はデジタルコンピュータ
というより、しばしば計算尺(アナログ計算機)に近いが、計算によって明らかにする。
経営科学者は、数学とデジタルコンピュータの力を借りて、どうやって現実のビジネ
スの問題、稀少な資源の配分という意味では経済学的ですが、それを計画的に解く方法を
教えてくれる。
*
一方、コンピュータ科学者たち、とくに人工知能、あるいは認知科学と呼ばれる分野の
研究者は、人間が知的に解く課題を、どのように機械でまねできるのかを解明し、その
限界に挑んだ。実際、コンピュータがチェスの世界チャンピオンを破った。
* 今では現実社会に役立つ技術へと、発展しているこれらの分野は、いずれも
知性の計算的側面を明らかにするという共通の性格を持つ学問だった。しかし同
時に、人間の知性には、合理的な計算や論理だけでなく、感情、感性、社会性、制度的
背景などが密接にかかわっていることが、あらためてこうした学問の発展を通じて認識
されるようになったのではないか。
* 多くの重要な現実問題は、残念ながら知的パズルとして解けるような小さな問題でない。
----否、これは正しくないかもしれない。十分ターゲットを絞り込めば、
知的パズルとして現実の問題に有効な手立てが見つけられる。そう信じて進む。
信じるか、さもなくば剣か。この種の分割統治がつぎつぎに
あらゆる分野で功を奏した結果、今日の科学やテクノロジーがあるわけだから。
*
専門雑誌のバックナンバーを調べていると、いったいだれが、
かつて自分自身が辟易した「20世紀に蓄積された社会を
マネジメントするための膨大な知識」を
継承できるのだろうかという素朴な疑問をもたざるをえない。
もちろん、関連する学会や研究者は存在しており、論文や研究発表
もさかんである。
インターネットから最新の研究成果を探すのも
容易になった。最初から基礎をスキップした人たちにとって
それらは利用可能だがアクセスできない知識である。
若いときもう少し努力しておけばよかった。
いずれそう思い後悔する。そうならないためには、
それらに近づかなければいい。
*
皮肉を書いたことになるが、上のような論法は、後述する「多重自己」の先駆的研究
であるフロイトの自我理論やその後継であるフェスティンガーの認知不協和理論
の例示でもある。
教育上の問題
*
20数年前、ある種のアンビバレントな気持ちに基づき、
受験生A(筆者)はその少し変わった教育内容をかかげる教育機関を選択した。
そのカリキュラムは、上記の分野の素養をなすものだった。
*
計量的手法のトレーニングは、文科系出身者にとってやっかいな
面があるのかもしれない。Aは理系受験であったので分からないが、
当時から受験で数学を避けてきた学生に無理強いするのは
効率的な教育とはいえず、退屈なドリル(反復作業)になって
しまうような感じがしていた。
* 線形代数やら論理学の基礎問題などは、多くの人にとって、
もっとも味気ない、砂をかむような訓練だ。自分も経験したが、
他人から見れば、どちらかといえば、そういうのが得意の部類
だったかもしれない。主観的にはそうでもなかった。
* たんに記号の約束事や操作手順を覚えて適用すること自体に
強い心理的抵抗があると訴える学生に出会うと、「やっぱりね」
などと思ってしまう。教師としては、いかがなものだろうか。
共感はできないが、
ある意味、まともな知性のしくみであると考えられなくはない
のではないか。
* 規則の適用に対する心理的抵抗は誰しも経験することだろう。
ふつう人は、記号やその操作(=シンタックス)だけでなくその意味
(=セマンティクス)を求めるものである。
一方では、逆に規則にしたがって考える、公式を当てはめて答えを
はじき出す、あるいは理詰めの議論で人をやりこめるといったこと
自体に、喜びを感じるたぐいの人々も少なからずいそうである。
これに加えて、現実の社会は
進学、さまざまな資格取得、有利な職業に就くための「受験システム」
を備えていて、そのインセンティブを与える。
*
これらは人間を育てるための社会の知恵であり、現実社会のルール
であるから、受け入れないわけにはいかない。
一方、携帯電話やインターネットから簡単に情報や知識が得られるように
なった反面、資格志向や職業向けプログラムが入り込み、
学問のための学問、ある意味で純粋な学問の大学教育の
役割をきちんと説明することが求められているように思える。
*
では大学教育はどういう「卒業者」を目ざすのか。
これまではP.ドラッカーの用語で言う、「知識作業者」を育てるということ
につきていたと思われる。
かつては専門知識や高度な知的能力を要求される仕事そのものが、
社会で比較的希少だった。大学進学者が増え、
短期的に供給過剰が続いていたが、トレンドとしては
需要とともに成長する。上澄みの方を見れば、「ほとんどの人間は
研究者になるわけではない」、「大学の勉強は社会で役に立たない」
という見方はあたらないと思うが、身についていない学問は、
それを役立てようにもできないだろうから、義務教育の部分プラスの部分
が有効に活用されない。なにごとも中途半端は役に立たない。
*
しかし実用性だけが教育の意義だと考えるのは、あまりに
マイオスコピックではないか。客観的な世の中の見方・
考え方を幅広く学び、自分自身の言葉でそれをまとめあげる力を
養う。いわば「現代社会」と「自分自身」を情報化する
消化能力をつけるための時間と設備・カリキュラムを提供する、
それを通じて潜在的に、専門知識を社会で
有効活用する技術の一翼を担える人材になっていく。
大学入学者に自覚やプライドがあれば、自発的に学ぼうとする
動機付けになるし、またそれを邪魔しない程度にきびしい
カリキュラムを組めばいい。一つのスタンスとしては、学ぶか、
学ばぬかは自分で選ぶもので強制してはいけないと考えることも
できるだろう。(とはいえ、出席をとる授業は昔もあったし、
モラトリアム論に対する懸念は旧知だ。
*
ゲーム理論を使って説明を試みよう。いわゆる「合理的な豚」
ゲームでは、教える側が小さな豚で、学生が大きな豚
である。(自発的に学ぶ、強制的に教えない)がその意図された唯一の均衡解だ。
実際には、別のゲームのペイオフの場合が生じうる。囚人ジレンマ
ゲームでなら、非協力均衡ーー(学ばない、教えない[*])におちいる
危険がある。[*]平均的な文科系学生が受講する場合、
数式や英語をふんだんにとりいれた専門科目の講義を
行うことは事実上忌避されている。
*
これらは杞憂に過ぎないのかもしれない。
社会で学んだことを活かそうとすれば、どっちみち苦労する
ことにはなるので、そうなるかならないかは、
自己選抜の結果だろう。
多重自己モデリング
*
以降は、多重自己(たじゅうじこ;マルチプルセルフ;multiple self)
と呼ばれる意思決定者のモデリングについて述べてみよう。
より心理学的な意思決定の理論としては、
たとえばSimonの限界合理性やTversky−Kahnemanのプロスペクト理論など
よく知られた代替モデルがあって、合理的な選択をその標的という感じで
批判する人もいる。実際には、これらは多重自己モデリングの
コンポーネントだと考えられる。プロスペクト理論は、消費者が
心の中に何種類かの財布をもって、それぞれ独立にやりくりしている
という主観的勘定説(メンタルアカウンティング)として、
その直観的な意味が説明されている文献もあるくらいだ。
もし読者が原価管理や経済性工学に詳しい
なら、間接費用の配賦の誤謬といったほうが、類推しやすいかもしれない。
*
多重自己は、「ジレンマ」というよく使われる別の似た言葉があるが、
またシステムダイナミクスで言われる「政策抵抗」(ポリシーレジスタンス)
にも近いだろう。これは処方対象となるシステムのメンバー(クライアント)
より、むしろ分析者のメンタルモデルの不完全さあるいは偏向に由来する
現象である。
したがって、多重自己は、合理的意思決定の理論を社会に役立てようという
語り口の中に、あるいはそれ自体に見出せるようである。
*
----現実の問題に立ち向かう生きた知能にはちっぽけな力しか持ち合わせがないことが
しばしばである。机上の合理的計算によって得た処方箋は、観察者の思い
込みに過ぎなかったり、あるいは利益誘導の隠れ蓑であることが見透かされるなどして、
現場の人たちからは必ずしも受け入れられないかもしれない。システムダイナミックス
の研究者はそうした現象を政策抵抗と呼んだ。
*
現実社会の諸側面、すなわち国民経済・事業体・都市地域の諸問題を
発見し、診断し合理的な処方箋を作り出す。「社会で役に立つ」問題
解決志向は、魅力ある語り口である。ですが、K.ポパーに諭されるま
でもなく、現実社会では、理想に走っても成功に結びつかないことは、
たいていの大人は経験上知っているし、わかりやすい全体目標に
とびつくべきでないという教訓も歴史的事実として知っている。
*
現実社会は構成員間に価値観や見解の相違があるのがふつうですから、
もし明らかな正解、明らかな間違えがあるとすれば、誰かの価値観を
選択していることになる。あるいはうまく公平な解を提案できるかも
しれないが、組織はもともと協調的である人たちの集団とは限り
らず、その場合は数学的に折衷しても意味がないだろう。
*
またたとえ限りなくグレーに近い価値観の持ち主の主張であっても、
それがクライアントであれば、科学・討論の力で正当化できなければ
社会で役に立つといえないかもしれない。そうであってこそ学問として
中立を保てるというのも苦々しいが、常識や感情に流されず、
合理的に批判する態度が科学には必要といわれるし、また
紛争解決とか調停のメカニズムとしてなら、司法に似ている。
自己意識・志向性
*
多重自己は、意思決定者の葛藤心理をモデル化する心理学的理論だが、
期待効用理論の代替理論として古くから研究されていた。
その先駆であるStortzはやはりコウルズ委員会のメンバーだった。
一人の意思決定者をエージェントの集合体とみなし、ゲーム理論を用いて
分析するアプローチはいくつかの異なる分野の研究者に引き継がれた。
またStrotzは動的プログラミングとして
論じたが、まだ当時知られていなかっただろうSeltenの
部分ゲーム完全均衡を、事実上、その解としている。
*
翻って、「語り口」という概念で、自己意識や意志(志向性)の
モデルを提案できないだろうかと考えてみたい。
*
人工知能研究者は人間の推論は、迷路の探索のようなものだと考えた。
つまり最終的な出口を目指して、どこでどの規則にしたがって、
つまりそれを仮説として受入れて、考えを前に進めるべきかいなかを、
各時点で決定することが必要だ。
それらはある意味で時間的に分散したギャンブルであるが、
コンピュータの行う探索プログラムと少し違って、人間の
行う推理では、規則同士の
関連性が、証明というシステムとしての全体目的に向かって
貢献できるように調整されているという安心感や信頼があって
はじめてその投機的な決断が可能になるのであろう。
*
形式的に規則を適用できない学生の事例に見られるのは、
それをガイドするメタ情報処理が円滑に機能していない現象だろう
と思われる。
また数理論理学者や人工知能
研究者も人間であり、よって証明システムの品質保証としての
「完全性」に固執する。
というのはコンピュータ自体はそれにはおかまいなしのギャンブラー
的ないし酔っ払い的な探索をするから、出口にたどりつけるとは
限らず、信用できないというわけである。(ぎゃくに酔っ払い的
な探索も、かなりの確率で信用できるという見方もできるが
それにはこれ以上触れない。)
*
そのメタレベルの情報処理のための様式が、後で述べる「語り口」
である。例えば、論理学者の完全性もそのひとつである。
完全性や決定可能性を証明して、はじめて形式システムとして
一人前とみなされる。経済学者なら、不動点定理で均衡を導出して
はじめて一人前の経済モデルとみなされる。これらはみな
その分野の作法なのだ。
*
また学生は、教員のたまに放つつまらない冗談とか、しゃべり方の
微妙な速さや声色の変化、つまり口調を通じて定期試験の
出題予想に役立てるかもしれない。「はい、ここが
重要ですよ、試験に出ます。」といった明示的なメタ情報では
なく、それらを通じて重要性評価の手がかりの
処理方法を覚えていくのではないだろうか。
*
学部生のころ、古本屋で買った生物学者K.ローレンツの「鏡の背面」
の中に、師匠ウリクトの口調を、嫌いだった自分が無意識にまねしている
云々というくだりがあった。徒弟関係における暗黙知の伝承スタイルとし
ての、印象的な語り口の例だった。
それは、もう少し別の角度から一般化すると、知識のタグ付け
(markup)である。あるいは、
消しても消してもまた復活するユーザーの移動プロファイルのような
ものか。たぶん、せいぜいNTサーバー管理者にだけ、共感してもらえる
比喩だが。
(もしプログラミング技術のメタファーを採用するなら、
アノテーションが、近いか、あるいは今後、近くなっていくように思う。)
経済学的メカニズムとしての心:認知的資源配分
*
なぜ規範的な問題解決志向の代わりに、
人間知能は「語り口」に基づき、計算的資源の割当をコントロールし、
その結果、考える努力をケチる傾向を示すのかは、認知的メカニズム
の観点から推理できる。
*
Simonが指摘したように、この希少な資源の浪費を防ぐこと、
つまりヘンな頭の使い方をして近い将来において興味や関心が
枯渇するのを防ぐよう、むしろ、脳システムが、やや長期的な視点
でカンリしているのである。
その結果、双対問題として見れば、短期的な視座において
自我システムが、「満足化」を行っているように見える。
*
上の自我ー脳のエージェンシーモデルを別の比喩を使って置き換えれば、
「興味や関心は生きた知能のエンジンを動かすためのオイルである。」
とか、あるいは「興味や関心はレバー(タスクの種類)
ごとに割り当てられるインスリンのようなものだ。」
といえる。
*
語り口は、たぶん、Tversky-Kahnemannのフレーミングと似ているのだろうと思うが、
リスクのある選択や多属性の対象の選択といった狭い意味での選好モデルとは
ちがっているから、そういってしまうとややピンボケする。
それを論じたいと思うきっかけになったのは、むしろ次のようなことであった。
すわわち「経済学者はなぜ市場という価格に基づくメカニズムを信じるのか」とか、
「なぜゲーム理論家はゲームプレイヤーが合理的だと信じ、また
それが共通知識だと仮定することで、ナッシュ均衡が予測できる
と信じるのか」といったことに、その例を見ている。いいかえれば、
一側面として見れば、権威受容の現象でもある。そして、興味深いことに、
1980年代以降のゲーム理論家たちは、それをまじめに形式化しようとして
苦闘してきていたのだった。他にそんな分野は見当たらなかった。
一つの例外を除いて。
* 人間は最終的達成目標がなくても、自分自身で「考える意
欲」をファイナンスできるのである。やる気になることは、
やる気になろうと思えばできる。哲学者は、自らの
思考システムを自己言及(self-reflection)として、長いこと考えてきた。
分権化とは、自律分散すること、つまり自分自身の目標は
自分自身で設定できる自由と責任を持つということである。
だが、その試みが実を結ばないのなら、
その思考のプロジェクトはやがて不良債権となり、その結果、
再び自分自身で意欲を調達できにくくする。
* その結果、当面の話題についての「関心」、つまり認知システムに
割り当てられる計算的資源の上限は0に落ちる。これは人間の心が自
然に行う、一種の分枝限定操作でもある。
*
人間の認知システムがこの資源配分問題を解くとき、一種の
信頼形成問題を解いている、その意味で知能が(仮想的に)社会文脈に
埋め込まれていると考えられる。
*
このアイディアは古くて、G.H.ミードの
自我理論がそうだったし、あるいはヴィットゲンシュタインの言語哲学
にもそのにおいを嗅ぎ取ることができよう。しかし、もっと数理的に
きちんとモデリングできるはずだ。
またそれゆえに、私にとって経営組織が興味深いのは、
「埋め込まれた知能」が外延化されたシステムであるからで、おそらく、
それはH.A.サイモンがバーナードの組織論に惹かれた理由と似ている
のではないかと思う。
* 別解として、マルチエージェントシステムとしてこのはたらきを
モデリングしてみよう。まずその問題を解く価
値がいかほどかという感触を得るために、その
双対問題ないしラグランジェ緩和問題を解いている。
またそれはホップフィールド型のニューラルネットワーク
でもシミュレーションされるだろう。
*
ただしたんなる複数エージェント間の(水平的な)インタラクショ
ンではなく、何らかの調整メカニズムがあり、それが自己意識や
自由意志に対応していなければ、認知的モデリングとして
不十分である。例えば心の中に比較的
単純なマキシマイゼーションを行うエージェントたちを生成し、
その入札を行うというのがそのナイーブな実装例であるが、
そこでの自己意識の役割はきわめて限定されたものである。
関心によるメタレベル制御
*
関心の問題は、考える意欲にかんする思考システムにおける
価格決定(あるいは信用の付与、信頼形成の問題)であるから、
経済理論やファイナンス理論の自然なアナロジーでもある。
認知モデルとしては、計算的資源の資源配分システムとして見たてて、
数理計画法やゲーム理論(メカニズムデザイン理論)を用いた分析が
可能とも思える。
*
当面のタスクを意識的に解こうとする主体は、
意思決定者における動的な「関心」の配分とそのカンリのシステム
として語り口を信頼する。
また語り口は、思考のエージェンシーを形成するためのプロトコール
である。自由意志とか自己意識のモデルはこの制約の下にあって、
(作業記憶において)規則にしたがった思考を遂行(インプリメント)
するメカニズムである。またそれが、
多重自己問題の解を与えているはずと考えられる。
*
上のように書くと、「なんだかわかんない」と思われるかもしれない。
何を意味するかはとくにむずかしくない。語り口には静的な語り口と
動的な語り口があり、前者は認知的資源配分ルールの動的な変化を
伴わない、比較的単純な仕組みだ。
*
静的な語り口はたんに情報が
どのように伝えられるかを定めた様式やスタイルである。例えば
ワープロソフトには
さまざまな文書のテンプレート、書式が付属しているだろう。新聞や
雑誌や手紙、大学生のレポートや研究者の論文、それぞれに書式や
スタイルというものがある。年賀状に暑中見舞いと書く人はまずいない。
授業レポートや学術論文には、書き方があって、まず学生が指導される
のは文章の内容ではなく、そういうマナーだ。表紙をつけるとか、
締め切りを守るとかいったことも、含まれている。
それを守らなければ、受理されない、読まれない関所のようなもの
と考えると分かりやすい。
*
それは情報の受け手が、内容を読まずに、
前もってデフォールトの価値を決めることを意味している。
その結果、各時点での意思決定者(=エージェント)は、
提案された解法を受け入れてみる(すなわち、期待された情報処理の枠
組みに合致するものとして、そこに記入された情報を格納する)か、
拒絶するか、あるいはいずれにも決めないかのプロジェクト選択
を行う。
*
情報処理の枠組みとしての語り口によって、前もって与えられた
情報価値を、線形計画法のアナロジーから、
影の価格(双対価格、ポテンシャル)と呼ぶことにしよう。
ゲームプレイヤーとしての私
*
その初期値
(=デフォールト)には、
問題を与えている相手の相貌がださい、話し方が気に入らないとか
いった、とうてい内容と関係すると思われないような諸諸の感性的要因
すら、効いてくるかもしれない。すなわち、語り口は、情報の伝わる文脈の
アトラクターを形成するのである。
*
上記モデルを用いれば、規範理論の忌避について説明することができる。
ある思考スタイルについて、ひとたび地雷検知装置が脳内にビルトインされると、
もはや自分の意志だけではどうすることもできない。
その分野の知識を吸収するために、いちじるしく大きな
コストを支払わなければならなくなってしまっているからである。
自分の中に眠った能力は、もはや自分自身が特権的に接近可能な
資源ではなくなってしまっている以上、合理的な選択は
自分の能力を発揮することが可能な、できるだけコストの低
い道を探して進むことである。
*
それは悲しいことにさほどレアな確率事象でもない。論文を読み進む
前に、2〜3行読んだだけでも眠くなるとか、講義を聞く以前に、
教師の口が動き始めるのをみただけで頭が痛くなるとかいう
条件反射が学習される。
別の言い方をすれば、そうした状況では強化子に対する
最適反応戦略が埋め込まれたゲームのプレイヤーに自分自身が
なってしまうので、いわゆる計算主義認知モデルは起動
される以前に、ブロックされている。メカニズムは、ナイーブな
素人でも、専門家も同じである。分かりやすい作り話をすれば、
気に入らない他の研究者の論文は
タイトルも見たくないから、どうしても業績を作りたければ、
別の学会を作って似た研究をしないといけなくなる。
(そんな人が実際いるかどうかは実例を知らない。)
*
こうして、人生は地雷を避けて通る道を探すことに等しい。
脳内、すべてが地雷になっている場合が、引きこもりを
選択する人だと推察される。
少し軽い場合はフリーターを選択するだろう。
しかし、虎穴に入らなければ得られない虎子もある。
実際にコストをかけてやってみることで、ポテンシャル(=影の価格)
は更新される。
*
前に述べた「暗黙知の伝承」スタイルとしての観点で言うと、
「論語」は、おそらく、最も有名
な語り口のサンプルである。孔子(Confucius)は古代中国、周時代、魯(lu)
の国の人で、西洋の知識モデル(認識論理学)における反省公理(positive introspection axiom)や
「無知の知」の公理(negative introspection axiom)を事実上提唱している。
* しかしその主題は別のところにある。孔子は、尭、舜、兎といった
名君、そして夏、殷の両国を経て引き継がれ、周において確立された
封建制度、現代的に言えばガバナンスを研究したのである。
*
「論語」という書物自体は、そもそも研究書ではない。
孔子の死後弟子たちがまとめた弟子との対話の記録(言行録)である。
本来の研究成果(コンテンツ)であったろう制度研究の部分は、おそらく、
読んでも面白くないので、次第に削除されたものと思われる。
意味不明の断片として数箇所に痕跡をとどめている。
*
論語では、封建制度を支えた精神構造と聖人君子像が語られる。また
富と権力を手中にし、主君をないがしろにする臣下たちに対する嫌悪が示されている。
哲学思想としては、上記の知識論に
加えて、「仁」という、倫理学というか、今日の社会選択論やゲーム理論に
通じる概念が叙述されている。
一方、彼以降の儒家思想は、主従関係を強化する意味があったが、
今日の民主主義社会では、あまり評価されていない。
おわりに
本エッセーでは合理的な意思決定の学問である、経済学、経営科学
/OR、あるいはシステムアプローチについて、生硬ながら、個人的思い入れを
述べてみた。筆者は多重自己という意思決定モデリングを発展させて、
認知的資源配分問題としての心のはたらきを研究している。
また線形計画法における双対性やメカニズムデザイン(遂行理論)
のアナロジーである、「語り口」を通じて、合理性が制限されるしくみに
ついての仮説を述べた。
*
筆者は、学生時代に経済学やORの伝統的方法に欠けている何かが、
認知科学に近いらしいと分かったが、畑違いと諦めていた。たまさか
当時の時代背景から、大学院でそれを学べる可能性が生まれた。しかし
現在は生業として、比較的伝統的なOR手法やIT利用を学生
諸君に教えたりしている。これ自体、一種の多重自己である。さらに言えば、
研究では意思決定論やゲーム理論のモデリングに、大学院時代に習ったPrologや
論理学を役立ている。あえて実装とは
いわずに、モデリングといってきた。その理由は、
本エッセーで述べたような、論理や合理的選択の理論では割り切れない
(と常識的に信じられている)多重自己のための理論や処方を語るための
コンポーネントとして役立てたいと考えているからである。
より正直に言えば、半ば無意識的に、本来の目標は
「実装」ではないこと、コンピュータ技術を人間の知的労働に置き換えて「役に立つ」ようにする
こととは異なるところにあるということを、どこかにマークしておきたかった
からであろう。
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今どきの大学のカリキュラムでは、珍しくもないが、その昔、コンピュータ、
経済学、心理学他が、専門科目として何気に並んでいるのを見て私は関心を持った。
一方では人間や社会の本質を探求するそれぞれの学問領域の複合が、たんに
社会で役に立つこととは両立しないと直感できた。また、そのこと自体にどきどき
感を持ったのである(現実には、もっと別の理由で、両立が難しいということを
教えていただいた)。もしそうでなかったならば、私はさほど勤勉でもなかったし
勤労意欲もないのに、就職の有利さから進学先を選んだ、ということになるだろう。
それゆえ、それが真であっても偽であっても、多重自己の例にはなる。
この文章を書き始めた頃と今日ではまた状況が異なってきている。むしろ、
冒頭で触れたような技術は、大企業ではERP、BWH、CRMなどに組み込
まれて普及に突き進んでいる。これらに用いられる計量分析は
規格大量生産時代の遺物の現代版ではないかという素朴な疑いは、おそらく
当らないだろう。しかし本エッセーで述べたような問題意識に
対する学問的・実務的な対応も、おそらく、進んでいない。
(2003/10/29,11/5-11, 12/4-8,13,21,22, 2004/2/29,3/1,2,5,13,14,25,26,4/9-10,
5/9,7/19-30, 11/1,3,15,20-22,2005/2/22,26,28, 3/1,5, 5/23-24, 8/19, 9/23, 10/24, 11/17, 2008/8/28 改訂)